ものがたりのうまれかた

(2010.5.20)
忙しくない時は、4歳の子どもに、寝る前、お話をしてあげます。そのお話のお話について、ちょっと思ったことを書いてみましょう。

 

お話は、必ず「むかしむかし」から始まります。そしてその次に、「あるところに」と続きます。べつに「むかしむかし」を省略して、「あるところに」からいきなり始めてもいいんだけど。さらには「むかしむかし」も「あるところに」も両方省略しちゃってもいいんだけど。とにかく基本は、「むかしむかし、あるところに・・・」だということです。

 

現在や未来ではどうも上手くいかない。また場所を限定しても上手くいかない。「むかしむかし、あるところに・・・」は、手軽で、素敵で、オールマイティーな話の扉です。この扉の開け方なら、後は安心。どんなストーリー展開も自由自在です。

 

そして実は、この「むかしむかし・・・」は、聞き手に大きな安心感を与えます。だって、「むかしむかし・・・」から始める物語は、必ず過去形なんですよ。カコケイ。これが大事です。これから始まるお話は、過去に本当にあったことなんですよ~。未来に起こるかどうかわからない、本当かウソかわからない、不確かで怪しい話では無いんですよ~。だからあなたは安心して聞いちゃっていいんですよ~。

 

例えば、むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。そこにいたんだもん。過去に。実際に。この有無を言わせぬすさまじいリアリティー。そしてリアリティーに裏付けられた大きな安心感・安定感。すごいですね。「そんなの、あるわけない!」とか、「ありえない!」とか、疑う心を捨てて、安心して聞いてくださいね。だってこれから話す物語は、過去形の、過去に実際に起こった本当の話なんだから。カコケイ、カッコイイ。

 

そして、その大きな安心感が約束された過去形世界の中で、次に来るのが「あるところに・・・」です。この「あるところに」が、話し手に、その後のストーリー展開の自由度を100%保証してくれます。もう、「あるところに」と言われた瞬間、聞き手は白紙の小切手にサインさせられたようなものです。そう。「あるところ」は、もしかしたら僕達が住んでいるこの世界の中のあるところかもしれないし、僕達の知らない全く別の世界かもしれません。

 

その「あるところ」では、何でもありです。例えば、「むかしむかし」なのにロケットが飛んでいたり、iphoneがあってもいいわけです。そういう世界が実際にあったんだから。その「あるところ」には、〇〇〇〇〇という名の4歳の女の子が住んでいても良いし、そしてその女の子が物語の最後に、いきなり目と鼻と口から豆のツルを出して、その豆のツルでクラゲを釣ってウミガメと結婚しても良いわけです。その「あるところ」では、過去に実際、そういうことが起こっちゃったんだから。

 

さて、「むかしむかし、あるところに・・・」の後が困ります。ここからは、話し手である僕の目の前に、自由の海が広がっています。レールの無い世界。お話は夜の9時頃に布団に入ってするので、この時点ですでに僕は眠くなってきてるのに。頭を使ってなんとか道を切り開かないといけない。

 

そこでちょっとサボります。まだ頭をフル回転させたくない。心地よい眠気の中で、サボりたい。だからとにかく、何も考えずに極端なことを言ってみます。例えば、「おおきな、おおーきな、おおーーーきな・・・」、とかね。小さなでもいいけど。真っ暗でもいいし。

 

子どもって、極端なのが好きですね。おおきな、おおーきな、おおーーーきな、見たこともない大きいもの。そんなに大きいのは、きっと今まで見たこと無いハズ。友達もイトコも、誰も知らないハズ。自分だけが特別、これからその、無茶苦茶大きい何かについて、知れるポジションにいるという、この喜びと優越感。スペシャル度満点です。期待感も満点です。この時点で、僕のベクトルは眠りの方向に、子どものベクトルはエキサイトする方向に行ってるんですね。先が思いやられます。

 

おおーーーきな、、、何でしょう?

 

めんどくさかったら、ここで「カブ」か、「おじいさんとおばあさん」です。害が無い。安心。そのくせ、むちゃくちゃ大きいっていうだけで、ちょっとスペシャル。そこから無難な話が繰り広げられていきます。大きなおじいさんと大きなおばあさんが繰り広げる大きな世界へようこそ。あるいはもう少しひねって、「おじいさんとおじいさん」。おじいさん、ダブルで。

 

でも無難な話よりもう少し、子どもの心をガッチリつかみたい場合。しかも自分はラクしたい場合。子どもに媚びることです。キャラクターを出しましょう。熊のプーさんとか。キティーちゃんとか。オーソドックスなものが吉。

 

プリキュアとか変に流行のキャラクターを出してしまうと、「そこは間違ってる!」とか「ちがうでしょ!」とか、子どもがいろんなややこしいクレームを付け出します。そして何故か、最終的には子どもは泣きながら激怒し出します。期待が大きかった分、期待が外れた時の落差が大きい。そのプリキュアの名前はおかしいとか、服が違うとか、そんな技は使わないとか。もう悲惨です。

 

「むかしむかし、あるところに・・・」の話は、こうなったら終わりです。絶対にこっちが主導権をキープしないといけない。成り立たない。子どもの頭が現実とリンクしだして、「それはおかしい」「間違ってる」とか子どもが決めだしたら、その時点で大失敗。

 

僕の経験からは、ディズニー系やムーミン、ミッフィー、キティーなど、古典キャラクター系は大丈夫。むかしむかしの仮想世界に乗って行けます。でもプリキュアやアンパンマン、ドラえもんなどテレビ系は、ダメ。「むかしむかし、あるところ」の話として受け入れてもらえない。子どもの頭の中でテレビの話になっちゃいます。

 

僕はあくまでラクしたい、でもキャラクターを使いたくない気分の場合、他の方法もあります。視聴者参加型です。例えばおおきな、おおきな、おおーーーきな、、、おうちがありました!

 

はい。おうちと来ましたよ~。

 

そのおうちには、パパとママと〇〇ちゃんが住んでました。壁は何色にする?トイレ何個作る?イスは?カーテンは?お友達を呼んだときは、どの部屋で遊ぶ?お菓子も買っときたい?などなど。このあたりですでに、「おーーきな」は忘れ去られちゃってるんだけど、それでいいのです。

 

視聴者参加型。これは子どもが確実に乗ってきます。僕的にも、頭を一切使わずとてもラク。テキトウに質問をつなげるだけだから。だるいけど。だるいし、生産性が無い。

 

この場合、お話がただの仕事になってしまいます。仕事としてのお話。せっかく「むかしむかし」から始まる大きな自由と無限の可能性を手に入れてるのに、主導権を子どもに渡しちゃった。残念。でも、ラク。子どもも泣きわめきながら怒ったりせず、喜んでくれる。お話を考えるのが面倒くさいときは、子守職人に徹して、この手を使ったりもします。

 

さて。戻りましょう。

 

「むかしむかし、あるところに、」の次に、「おおーーーーーーーきな、」と来ました。その時点でもし、僕に気力がみなぎっていれば、最高に面白い話にチャレンジします。ギネスに挑戦。ここでいう「最高に面白い」は、あくまで僕自身にとって、ということです。子どもにとって面白いかどうかは、それほど関係が無い。自分自身が楽しめばいい。そしてその上で、子どもが楽しめるなら、楽しめばいい。

 

ただし、そうは言っても、子どもが楽しめなければ、「その話、おもしろくなーい!」とか言いだして、非常にややこしい事態になっていきます。これじゃあ僕自身も楽しめない。ギネス級の面白さにとても挑戦できない。だから、この「自分さえ楽しめれば良いと思いつつ、その手段として、まずは子どもを楽しませないといけない」という不本意な状況を逆手に取ります。これを追加ルールにするわけです。

 

飛車角落ちで将棋をして勝つような感じ。「子どもを飽きさせない」という制約付きで、自分にとってギネス級の最高に面白い話を展開させていくという、超難関なゲーム。

 

さて。ここで。「最高に面白い話」の評価ポイントはいろいろあるんだけど。基本的に寝ながらするテキトウな話だから、あんまり厳密に考えてません。いろんなワザを織り交ぜて、総合的に最高に面白ければ良い。

 

例えば、僕の作ったキャラクター、キコリのキコリン。これはキコリです。猿です。(ちなみに、キコリンは僕の中では僕が作ったオリジナルキャラクターだけど、こんなの誰でも思いつく古典的なものらしく、ネットで検索したらキコリンだらけです。)

 

まず、キコリンの素晴らしさ、1点目は、ダジャレ。これはポイント高いですね。キコリだからキコリン。4歳児はダジャレを全く理解しません。そのまま素直に、キコリンという名前のキコリなんだなー、と理解します。そっちの方が驚きですね。子どもって面白い。しかも、子どもは「キコリって何?」と聞いて来ます。子どもはキコリを知りません。そこでおやすみ前のお話を通じて、子どもの知らない大人の職業を紹介する。これだけで教育効果がさりげなく含まれてるわけです。しかも、キコリのキコリンというダジャレでかぶせてる効果で、「キコリ」という名前を覚えさせやすい。さりげない教育的な工夫が至る所にちりばめられた、実に巧妙なキャラクター設定です。

 

キコリンはこの辺にして。後、僕が結構こだわるのは、「そう来たか!」というようなアッと驚くオチですね。もちろんこのオチも、子どもには理解できないような高等なものです。例えば、とっても仲良しのA君とB君の物語。お話の中では彼らは2人の別個の人間として扱われるんだけど、実はその2人は、1人の人間の表の顔と裏の顔を表してたとか。それが、物語の最後に暗示される、とか。映画っぽいストーリー。

 

それとか、捕食者側からの視点と被食者側からの視点が複雑に切り替わりながら物語が進んでいくとか。そして最後には、幸せなはずの捕食者が実は不幸で、不幸なはずの被食者が実は幸せだったとか。これを、子どもを楽しませるという制約付きでするのです。

 

その他の評価ポイントとしては、、、そうですね。さっきのキコリもそうだけど、物語の中で、子どもの教育にチャレンジをするのは楽しいですね。赤鬼と青鬼が結婚して、紫鬼が生まれました。赤と青を混ぜたら紫になる、という色彩系の教育効果が含まれるわけです。「厳密に言うと」とか「あるいは」とか「しかしながら」とか、インテリっぽい言葉をさりげなく多用したりするのも良いですよ。

 

そんなこんなで、自分の眠さのレベルが高まるにつれて、上手く物語を結末へと導いていって、眠さが限度に達する直前に、「おーしーまい!」と言って充実感とともに眠りにつく。これが理想です。 おーしーまい!

2010年05月20日