雑文一覧

邪馬台国について

(2004.6.11)
2004年6月11日の、とりとめのない妄想を文章化したものです。


今日はふと、邪馬台国について考えてみた。

 

邪馬台国:

紀元2世紀後半から3世紀前半にあった女王・卑弥呼が治める国。周囲の21カ国と「邪馬台国連合」を形成していた。中国の正史である三国志の魏志倭人伝に記述がある。239年に中国(魏)に使者を出して、曹操の孫である明帝から「親魏倭王」の称号と銅鏡100枚をもらった。魏志倭人伝には邪馬台国の位置も記述されているが、その記述の不明瞭さ、そしてその他の資料の少なさにより、所在が九州か畿内かの論争が今でも続いている。

 

さて、僕も邪馬台国の所在地論争に興味が無いわけではないけれど、今日は卑弥呼はどんな人だったのかを考えてみた。ちなみに僕は歴史の基礎知識が欠落しているから、これはあくまで自分勝手な妄想なんだけど。

 

卑弥呼は巫女で、神のお告げとかを聞きながら国を治めていたようだ。亀の甲羅を焼いてヒビを入れたりしてたのかな。そのヒビを見ながら、「来年は不作になるから今から質素倹約しておきなさい。」とかバンバン指示を出してたんじゃないかな。

 

本当に卑弥呼は神のお告げが聞けたんだろうか。卑弥呼に限らず、旧約聖書なんかでも神(この場合はユダヤ教の神だけど)のお告げを聞ける人がいっぱい出てくる。昔の人たちは特殊能力があったんだろうか。特殊能力かどうかはわからないけど、僕が卑弥呼なら、やっぱり神のお告げは聞こえると思う。

 

そのお告げが本当に神からのお告げであるのか、もしくは自分の脳内で勝手に作らてしまったお告げであるのか、それはわからない。でも、こういう場合、本当に神からのお告げかどうかはそれほど大事じゃないと思う。大事なのは本人が神のお告げだと信じていること。

 

亀の甲羅にヒビが入る。毎回入り方が違う。なぜ違うのか。それは甲羅のヒビが神からのお告げだから。お告げが変わればヒビが変わるのはあたりまえだ。そんなことは常識だし、みんな知っている。

 

今日のお告げは「来年は不作になるから、今から質素倹約しておきなさい。」ということだった。甲羅に縦横に細かいヒビが入ったし、それは田んぼがカラカラに乾いてひび割れている状態まさにそのものだった。そういえば昨夜夢に見たウサギも痩せこけていた。うん。間違いない。神様、教えてくれてありがとう。早速みんなに質素倹約の指示だ。

 

で。来年は不作だと言っておいてもし大豊作になったら。。。神が不作だと言ったのに豊作になった。もちろんそれにも理由はある。

 

去年、田吾作が畑で光る石を拾って私に持ってきた。私にはすぐにわかった。その光る石は現代で言うところのガラスなんだけど、その当時ではもちろん神の宝石だ。私にはすぐにわかった。だから私はその宝石を神にお返しした。だから、ご褒美として、不作であるはずの今年も豊作になった。だから今年豊作になったのは、ある意味、田吾作が神の落し物を見つけたおかげだ。明日は田吾作に感謝する日にするのでみんな仕事を休まないといけない。早速みんなに指示だ。

 

昨日なんかも、分厚い雨雲がパッと晴れて虹がかかった。なぜ雨だったのに急に晴れになるのか。普通はならない。普通ならないことが昨日なったというのは、そこには必ず理由がある。私は毎朝、定時に起きて神に祈る。でも昨日の朝は腰痛でしばらく起きることができなかった。私が起きてこないので神が心配して雲を取り払って、虹と呼ばれる七色の橋を渡って私の様子を見に来た。私からは神の姿は見えないけれど、私は神を感じることができるし、神の声が聞こえる。私が腰痛の時、神はたまに橋を渡って様子を見に来る。今までにそういうことが3回あった。

 

現代人なら「そりゃあ気圧の変わりやすい日は腰痛はひどくなるさ」とわけのわからないことを言うかもしれない。虹なんて水滴による光の屈折現象だよ。というかもしれない。現代人の屈折現象。

 

例えば3日前、与作が「家畜の牛に逃げられました。どこを探せば見つかりますか。」と言ってきた。私は教えてあげた。その牛は与作の家の災いを持って逃げたのだ。そして今頃、南の土地で死んでいるだろう。これはいい知らせだ。牛は与作の家に降りかかる災いを取り除いてくれたのだ。

 

私から見ると当然のことが、与作にはわからない。この世に満ち溢れている神のメッセージを受け取ることができない。最近イナゴが南に移動している。イナゴは災いの象徴で、イナゴが南に移動するのは災いが南に移動していっている証拠だ。牛となると、これはもう、イナゴの10000倍は大きい。イナゴが運べないほどの大きな災いを運ぶのだ。そんな大きい災いを、与作の家から牛が命を賭けて運び去ってくれた。だから与作はこれから毎日、牛に感謝のお祈りをしないといけない。とりあえず1ヶ月はお祈りを続けるように与作に指示した。

 

すると今日、与作がまた私に会いに来た。「逃げた牛が戻ってきたけどどうしたらいいですか」と聞いてきた。これは全くありえない。災いを運んだ牛は南の土地で死んでいなければいけない。

 

与作に詳しい事情を聞くと、なるほど、理由がわかってきた。与作は毎日、牛に感謝のお祈りをした。お祈りを一応はしたけれど、出産間近の妻の様子が気になったのでお祈りに集中できていなかった。やっぱり何事にも理由はある。そんなことでは牛も与作のために死にきれない。だから戻ってきてしまった。あたりまえだ。与作は私の指示に従って、もっと真剣に牛に感謝の祈りをささげるべきだった。でも今となってはもう遅い。その牛は災いを持っているのですぐに殺さなければならない。妻が出産間近ということは、イナゴ10000匹分の大きな災いは出産に関連しているに違いない。家に帰ってすぐに牛を殺して血を綿に浸して神棚にまつりなさい。

 

もちろん卑弥呼である僕は、少なくとも自分自身は本当に神のお告げを聞いていると信じている。周りのみんなも卑弥呼が本当に神のお告げを聞いていると信じている。全員がそう信じるのには理由がある。

 

世の中のことで普通じゃないことは何事にも理由がある。でも庶民にはその理由が何なのかはわからない。ところが卑弥呼には理由がわかる。なぜか。それは卑弥呼が神のお告げを受け取る選ばれた人間だからだ。

 

医者と同じだ。セキが出る。知識と経験豊富な医者なら、瞬時にその理由がわかる。もしくはどういう検査をすれば理由がわかるのかがわかる。これは結核、これは風邪。だからこの薬を飲みなさい。一般人はセキが出るというのは普通じゃないというのはわかる。何か理由があるはずだというのもわかる。でもその理由がわからない。だから医者に聞きにいくし、本気で治したければ医者の指示に従う。誰も5歳の子供に聞きに行かない。「セキなんかお菓子食べればなおるよ」と言われるだけだ。

 

邪馬台国では、卑弥呼が正しい答えを知っていた。だから当然、卑弥呼の指示は守らないといけない。卑弥呼の指示を守らなかった太郎は5年前、熊に突然襲われて死んだ。この時代、野生動物に襲われて死ぬのはよくあることだったのかもしれない。それでもみんなはこう思う-太郎は卑弥呼の指示に従わなかったからバチがあたった。

 

妄想は面白い。

 

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高校生のとき、学校に文化人類学の先生が講演に来た。スリランカの「悪魔祓い」についての講演だった。すごく面白かった。スリランカの農村では村人が病気にかかると悪魔祓いをする。あたりまえだ。病気は悪魔にとり憑かれたから起こるのは周知の事実であって、病気になったら悪魔祓いをしなければいけない。何事にも理由があり、またその理由がわかれば対処法は自ずと見えてくる。病気になれば悪魔を追い払えばいいのだ。

 

さて、悪魔祓いとはぶっちゃけていうと「祭り」だ。

 

病気で寝込んでる人がいる。その病人の家に村人全員が集まる。そこで寸劇が始まる。まず悪魔役の人が悪魔の仮面をかぶって病人にとり憑く演技をする。主役は寝込んでいる病人本人だ。そこに別の悪魔達も参加して、寝込んでいる病人(一応主人公)の枕元で踊りまくる。そして最後には悪魔役の方たちは全員追い払われて逃げていく。劇の進行とリンクして、病人に本当にとり憑いてる本物の悪魔も逃げていくことになっている。だから病人は病気が治ってめでたしめでたし。そしてそんな感じの劇を見ながら村人全員、病人の家で徹夜で飲み会だ。昔聞いた話だから詳細は違うかもしれないけど、大体こんな感じだったと思う。それで病気が本当に治るらしい。

 

その文化人類学の先生が言うには、病気をする人は大体、ムラ社会から疎外されている。村八分だ。それで精神から弱っていって病気になって寝込む。

 

病気の原因がすべて村八分によるものじゃないとは思うけど、ある意味納得はできる。精神的なストレスなんかがあると病気になりやすいし、村八分では人と会うのがイヤになって家に篭りがちになったりするかもしれない。不健康だし、家に篭っていては田んぼの面倒も見れないから食べ物もひもじくなってくる。それで病気になって寝込む。

 

この現象を村人は、経験的に、「悪魔に取り付かれた」というふうに解釈している。悪魔に取り付かれたら村人全員でお祓いをしてあげないといけない。それがムラのルールだし、そのルールは何世代にもわたる経験に基づいている。

 

村人全員が集まって、病人が主役の劇を見ながら徹夜で酒を飲んで騒ぐ。今までちょっと村八分気味の一人ぼっちだった病人に、多分みんながいろいろ話しかけたりもすると思う。仲直りの会だ。悪魔祓いを通して、壊れかけていた人間関係が修復される。病気の根本の精神的な問題が取り除かれる。それで本当に病気が治る-らしい。多分ガンとか、肺炎とか、大きな病気は治らない気はする。それでもいろんな病気が治りそうだ。

 

確か講演した先生は、悪魔祓いを通した人間関係の修復が病気を治している、という風に話されたと思う。それもあるかもしれないけど、僕の意見はちょっと違う。

 

病は気から。病人に薬だと偽って小麦粉を飲ませたら本当に病気が治る、ということもある。プラシーボ効果。悪魔祓いの場合も、病人本人はもとよりムラ社会全体が病気は悪魔が引き起こすと信じていて、悪魔祓いをしたら病気が治ると信じていて、実際そうやって治った病人を何度も見てきている。だから悪魔祓いで病気が治る。この方がすんなり説明できるんじゃないか。

 

ちょっとバブルのころの土地の値段を思い出した。国民全員が土地の値段が上がり続けると信じている。すごく信じている。信じているというより、「土地=値段の上がるもの」っていうのが社会の常識になっている。そんな社会で土地の値段がどんどん上がった。本来の土地の持つべき価値からどんどんかけ離れて行っても値段が上がり続けた。社会全体の信じる力が「価格上昇」という結果を生み出し、「やっぱり値段が上がるんだ」という結果がいっそう信じる力になる。土地神話。全員が信じた時、それは本当になります。もし卑弥呼が本当は神のお告げを聞いていなかったとしても、全員が信じたとき、卑弥呼は神の声を聞きます。

 

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さて、次にエーテルのことについて考えた。 光(光子)は波の性質と粒子の性質を併せ持つ不思議な物質だ。でもアインシュタインのちょっと前くらいの時代はまだそれがわかってなかった。「光は波である」と思われていた。光が波ならば何か媒介する物質がないと伝わらない。例えば人の声は空気を伝わって届く。糸電話なんかでは糸を伝わって届く。途中で糸をぷちんと切ったら急に届かなくなるよ。光も何かを伝わらないといけない。何を伝わってるんだろうか。答えは、エーテル。本当はそんなもん無いんだけど、その当時はあると信じられていた。

 

僕は昔のエーテルの第一人者になったつもりでいろいろ考えてみた。専門知識とかは全く無いからこれも全くの妄想だけど。

 

自分はエーテル研究の第一人者だから、エーテルについては何でも知っている。光は空気中とか、水の中とか、空気も水も無い宇宙空間までも伝わる。光は波であるのは明らかだから、宇宙全体に光の媒介物質-すなわちエーテルが宇宙全体に充満しているのも明らかだ。

 

それは不思議でも何でもない。地球上には空気が充満している。空気は目には見えないから見せてくれと言われると困る。でも確かにここにある。誰でも知ってる。それと全く同じだ。目には見えないけど宇宙にはエーテルが確かに充満してる。宇宙全体にエーテルという「何か」が充満しているところを想像してほしい。今こうしている間にも僕は呼吸とともにエーテルを吸い続ける。それに実際僕はエーテルを肌で感じることができる。

 

ここでエーテルはちょっと休憩して、話を現実に引き戻してみる。僕は地面からの水の蒸発のことを勉強している。僕はもちろん地面から蒸発している水を見ることはできない。水蒸気は普通、目では見えない。気体である水蒸気がまた細かい液体の水に戻って「湯気」になると見えるけど。でも僕には見えないはずの蒸発がちょっと見える。濡れた地面を見て、「あー、これはよく蒸発してるなー」と“見え”たりする。

 

でも実際に蒸発が見えているわけじゃない。地面の濡れ具合を目で見て、風の速さを感じて、日の強さを感じて、気温を感じて、周りの状況とかから湿度を予想する。後は「これくらいの状況なら蒸発はこれくらい」っていう知識に頼る。それで蒸発を見た気になっている。でも毎日そういうことばっかりしてると、感じ的には「蒸発が見える」っていうのに近い感覚になってくる。

 

特殊な環境を除いて、例えば昼の公園の芝生から、目では見えないけれども、明らかに、100%確実に、水は蒸発している。エーテルの場合は本当は無かった。でも、きっと当時の人たちにとってエーテルは、明らかに、100%確実に、あるものだったに違いない。真空中で声が伝わらないように、当時の科学的にはエーテルがなければ光が伝わらない。世界が真っ暗闇だ。だから当時のエーテル専門家の僕としては自信を持って、「ほら。エーテルは、ここにも、あそこにも、満ち溢れてるじゃないか。」と言う。もしエーテルが本当はなかったとしても、全員があると信じたとき、エーテルはそこにあり、肌で感じることができます。

 

まあ今日は、その次に僕は、自分の身体の中のバクテリアになったつもりでバクテリアの世界観について考えたんだけど、ボーっと考えるのは簡単でも文章にするのにすごい時間がかかるので書くのはやめておこう。

2004年06月11日

ものがたりのうまれかた

(2010.5.20)
忙しくない時は、4歳の子どもに、寝る前、お話をしてあげます。そのお話のお話について、ちょっと思ったことを書いてみましょう。

 

お話は、必ず「むかしむかし」から始まります。そしてその次に、「あるところに」と続きます。べつに「むかしむかし」を省略して、「あるところに」からいきなり始めてもいいんだけど。さらには「むかしむかし」も「あるところに」も両方省略しちゃってもいいんだけど。とにかく基本は、「むかしむかし、あるところに・・・」だということです。

 

現在や未来ではどうも上手くいかない。また場所を限定しても上手くいかない。「むかしむかし、あるところに・・・」は、手軽で、素敵で、オールマイティーな話の扉です。この扉の開け方なら、後は安心。どんなストーリー展開も自由自在です。

 

そして実は、この「むかしむかし・・・」は、聞き手に大きな安心感を与えます。だって、「むかしむかし・・・」から始める物語は、必ず過去形なんですよ。カコケイ。これが大事です。これから始まるお話は、過去に本当にあったことなんですよ~。未来に起こるかどうかわからない、本当かウソかわからない、不確かで怪しい話では無いんですよ~。だからあなたは安心して聞いちゃっていいんですよ~。

 

例えば、むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。そこにいたんだもん。過去に。実際に。この有無を言わせぬすさまじいリアリティー。そしてリアリティーに裏付けられた大きな安心感・安定感。すごいですね。「そんなの、あるわけない!」とか、「ありえない!」とか、疑う心を捨てて、安心して聞いてくださいね。だってこれから話す物語は、過去形の、過去に実際に起こった本当の話なんだから。カコケイ、カッコイイ。

 

そして、その大きな安心感が約束された過去形世界の中で、次に来るのが「あるところに・・・」です。この「あるところに」が、話し手に、その後のストーリー展開の自由度を100%保証してくれます。もう、「あるところに」と言われた瞬間、聞き手は白紙の小切手にサインさせられたようなものです。そう。「あるところ」は、もしかしたら僕達が住んでいるこの世界の中のあるところかもしれないし、僕達の知らない全く別の世界かもしれません。

 

その「あるところ」では、何でもありです。例えば、「むかしむかし」なのにロケットが飛んでいたり、iphoneがあってもいいわけです。そういう世界が実際にあったんだから。その「あるところ」には、〇〇〇〇〇という名の4歳の女の子が住んでいても良いし、そしてその女の子が物語の最後に、いきなり目と鼻と口から豆のツルを出して、その豆のツルでクラゲを釣ってウミガメと結婚しても良いわけです。その「あるところ」では、過去に実際、そういうことが起こっちゃったんだから。

 

さて、「むかしむかし、あるところに・・・」の後が困ります。ここからは、話し手である僕の目の前に、自由の海が広がっています。レールの無い世界。お話は夜の9時頃に布団に入ってするので、この時点ですでに僕は眠くなってきてるのに。頭を使ってなんとか道を切り開かないといけない。

 

そこでちょっとサボります。まだ頭をフル回転させたくない。心地よい眠気の中で、サボりたい。だからとにかく、何も考えずに極端なことを言ってみます。例えば、「おおきな、おおーきな、おおーーーきな・・・」、とかね。小さなでもいいけど。真っ暗でもいいし。

 

子どもって、極端なのが好きですね。おおきな、おおーきな、おおーーーきな、見たこともない大きいもの。そんなに大きいのは、きっと今まで見たこと無いハズ。友達もイトコも、誰も知らないハズ。自分だけが特別、これからその、無茶苦茶大きい何かについて、知れるポジションにいるという、この喜びと優越感。スペシャル度満点です。期待感も満点です。この時点で、僕のベクトルは眠りの方向に、子どものベクトルはエキサイトする方向に行ってるんですね。先が思いやられます。

 

おおーーーきな、、、何でしょう?

 

めんどくさかったら、ここで「カブ」か、「おじいさんとおばあさん」です。害が無い。安心。そのくせ、むちゃくちゃ大きいっていうだけで、ちょっとスペシャル。そこから無難な話が繰り広げられていきます。大きなおじいさんと大きなおばあさんが繰り広げる大きな世界へようこそ。あるいはもう少しひねって、「おじいさんとおじいさん」。おじいさん、ダブルで。

 

でも無難な話よりもう少し、子どもの心をガッチリつかみたい場合。しかも自分はラクしたい場合。子どもに媚びることです。キャラクターを出しましょう。熊のプーさんとか。キティーちゃんとか。オーソドックスなものが吉。

 

プリキュアとか変に流行のキャラクターを出してしまうと、「そこは間違ってる!」とか「ちがうでしょ!」とか、子どもがいろんなややこしいクレームを付け出します。そして何故か、最終的には子どもは泣きながら激怒し出します。期待が大きかった分、期待が外れた時の落差が大きい。そのプリキュアの名前はおかしいとか、服が違うとか、そんな技は使わないとか。もう悲惨です。

 

「むかしむかし、あるところに・・・」の話は、こうなったら終わりです。絶対にこっちが主導権をキープしないといけない。成り立たない。子どもの頭が現実とリンクしだして、「それはおかしい」「間違ってる」とか子どもが決めだしたら、その時点で大失敗。

 

僕の経験からは、ディズニー系やムーミン、ミッフィー、キティーなど、古典キャラクター系は大丈夫。むかしむかしの仮想世界に乗って行けます。でもプリキュアやアンパンマン、ドラえもんなどテレビ系は、ダメ。「むかしむかし、あるところ」の話として受け入れてもらえない。子どもの頭の中でテレビの話になっちゃいます。

 

僕はあくまでラクしたい、でもキャラクターを使いたくない気分の場合、他の方法もあります。視聴者参加型です。例えばおおきな、おおきな、おおーーーきな、、、おうちがありました!

 

はい。おうちと来ましたよ~。

 

そのおうちには、パパとママと〇〇ちゃんが住んでました。壁は何色にする?トイレ何個作る?イスは?カーテンは?お友達を呼んだときは、どの部屋で遊ぶ?お菓子も買っときたい?などなど。このあたりですでに、「おーーきな」は忘れ去られちゃってるんだけど、それでいいのです。

 

視聴者参加型。これは子どもが確実に乗ってきます。僕的にも、頭を一切使わずとてもラク。テキトウに質問をつなげるだけだから。だるいけど。だるいし、生産性が無い。

 

この場合、お話がただの仕事になってしまいます。仕事としてのお話。せっかく「むかしむかし」から始まる大きな自由と無限の可能性を手に入れてるのに、主導権を子どもに渡しちゃった。残念。でも、ラク。子どもも泣きわめきながら怒ったりせず、喜んでくれる。お話を考えるのが面倒くさいときは、子守職人に徹して、この手を使ったりもします。

 

さて。戻りましょう。

 

「むかしむかし、あるところに、」の次に、「おおーーーーーーーきな、」と来ました。その時点でもし、僕に気力がみなぎっていれば、最高に面白い話にチャレンジします。ギネスに挑戦。ここでいう「最高に面白い」は、あくまで僕自身にとって、ということです。子どもにとって面白いかどうかは、それほど関係が無い。自分自身が楽しめばいい。そしてその上で、子どもが楽しめるなら、楽しめばいい。

 

ただし、そうは言っても、子どもが楽しめなければ、「その話、おもしろくなーい!」とか言いだして、非常にややこしい事態になっていきます。これじゃあ僕自身も楽しめない。ギネス級の面白さにとても挑戦できない。だから、この「自分さえ楽しめれば良いと思いつつ、その手段として、まずは子どもを楽しませないといけない」という不本意な状況を逆手に取ります。これを追加ルールにするわけです。

 

飛車角落ちで将棋をして勝つような感じ。「子どもを飽きさせない」という制約付きで、自分にとってギネス級の最高に面白い話を展開させていくという、超難関なゲーム。

 

さて。ここで。「最高に面白い話」の評価ポイントはいろいろあるんだけど。基本的に寝ながらするテキトウな話だから、あんまり厳密に考えてません。いろんなワザを織り交ぜて、総合的に最高に面白ければ良い。

 

例えば、僕の作ったキャラクター、キコリのキコリン。これはキコリです。猿です。(ちなみに、キコリンは僕の中では僕が作ったオリジナルキャラクターだけど、こんなの誰でも思いつく古典的なものらしく、ネットで検索したらキコリンだらけです。)

 

まず、キコリンの素晴らしさ、1点目は、ダジャレ。これはポイント高いですね。キコリだからキコリン。4歳児はダジャレを全く理解しません。そのまま素直に、キコリンという名前のキコリなんだなー、と理解します。そっちの方が驚きですね。子どもって面白い。しかも、子どもは「キコリって何?」と聞いて来ます。子どもはキコリを知りません。そこでおやすみ前のお話を通じて、子どもの知らない大人の職業を紹介する。これだけで教育効果がさりげなく含まれてるわけです。しかも、キコリのキコリンというダジャレでかぶせてる効果で、「キコリ」という名前を覚えさせやすい。さりげない教育的な工夫が至る所にちりばめられた、実に巧妙なキャラクター設定です。

 

キコリンはこの辺にして。後、僕が結構こだわるのは、「そう来たか!」というようなアッと驚くオチですね。もちろんこのオチも、子どもには理解できないような高等なものです。例えば、とっても仲良しのA君とB君の物語。お話の中では彼らは2人の別個の人間として扱われるんだけど、実はその2人は、1人の人間の表の顔と裏の顔を表してたとか。それが、物語の最後に暗示される、とか。映画っぽいストーリー。

 

それとか、捕食者側からの視点と被食者側からの視点が複雑に切り替わりながら物語が進んでいくとか。そして最後には、幸せなはずの捕食者が実は不幸で、不幸なはずの被食者が実は幸せだったとか。これを、子どもを楽しませるという制約付きでするのです。

 

その他の評価ポイントとしては、、、そうですね。さっきのキコリもそうだけど、物語の中で、子どもの教育にチャレンジをするのは楽しいですね。赤鬼と青鬼が結婚して、紫鬼が生まれました。赤と青を混ぜたら紫になる、という色彩系の教育効果が含まれるわけです。「厳密に言うと」とか「あるいは」とか「しかしながら」とか、インテリっぽい言葉をさりげなく多用したりするのも良いですよ。

 

そんなこんなで、自分の眠さのレベルが高まるにつれて、上手く物語を結末へと導いていって、眠さが限度に達する直前に、「おーしーまい!」と言って充実感とともに眠りにつく。これが理想です。 おーしーまい!

2010年05月20日

大きくなったらなりたいもの

(2011.5.21)
僕にとって衝撃だったことは、子供が1歳か2歳の時かな?「大きくなったら何になりたい?」と聞いたら、「みそ汁」と答えたこと。僕なんか、面白いこととか奇抜なことを考えよう、考えよう、としても、全く考えれないのに。子供の発想はすごく自由で、面白いです。

 

その「みそ汁」が、やがて「パテシエ」になり、5歳の今では「モデルを踏み台にしてアイドル」だから。成長するというのは寂しいことだ。ただ、今の時点でアイドルだったら、今後それ以上ミーハーな感じにはならないだろうなー。

 

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僕は、やっぱり憧れる職業というのは、魔法使いですね。

 

ドラえもんの映画で、確か昔、「科学の代わりに魔法が発展した世界」みたいな設定のやつがあったんだけど、おそらくその影響です。魔法って、頑張れば使えそうな気がします。

 

確かに、王子様をカエルにしたり、人をパッと消したりする魔法は無理でしょうね。あんまりそっちのほうに進むと、ウィザードじゃなくてマジシャンになってしまいそう。はーい、今日は今からこのお姉さんを消しちゃいますよー。しっかり見ててくださいねー。種も仕掛けもありませんよー。なんか、魔法使いってあごひげを伸ばすイメージで、マジシャンは鼻の下にひげをちょびっと付けるイメージ。

 

魔女の宅急便とかハリーポッターみたいに箒で空を飛ぶのも肉体的には無理っぽいなー。精神的になら、幽体離脱みたいな感じで空を飛ぶということは可能かもしれない。 それとか、火炎魔法とか。ドラゴラムとかも無理っぽい。けっこう、どう頑張っても無理そうな魔法が多いですね。やっぱりいかにも魔法使いっぽい魔法は難しいかもしれない。

 

でも、たとえば、魔法の呪文を唱えると雨が降ったり。魔法の薬で誰かを病気にさせたり、病気を治したり。結界を張ったり。そういう、魔法とか、呪術とか、民俗宗教あたりの境界領域のもの。そういうのは、可能じゃないかな?

 

例えば漢方薬なんか、RPGの世界では魔法の範疇になってても全くおかしくない。「王女様を目覚めさせるためには、橋を渡ったそのまた向こうに咲くという、月見草が必要じゃ!」みたいな感じで。それで、橋を渡ると敵が強くなるから、まずはレベルアップしたり装備を高めたりしてから、月見草を取ってきたら、大魔法使いがトカゲのしっぽとかと一緒に窯でグツグツ煮て、魔法の薬をつくるんだよ。これって漢方薬を飲ませているだけかもしれない。

 

何年か前に死んだ僕のおばあちゃんは、かなり魔法を自由に操っていました。僕が子供の頃の記憶だからけっこう曖昧だけど。確か毎年、11月11日には、半紙に左手で「十一月十一日」と書いて、それを家の玄関とか窓とかに逆向きに1年中貼ってましたね。確か、泥棒が来ないように結界を張ってたんじゃないかな?おかげで僕の家には、泥棒が来たことがありません。

 

後は、十五夜の時にススキを1升ビンに飾って、その1升ビンの水は1年間取っておいて、それでやけどとか治してたし。便秘なんかも、僕はおばあちゃんの呪文で治してもらってました。ウチのお茶の間の壁とかトイレの壁は、呪文だらけでしたね。

 

それとか鬼が来ないように、庭にヒイラギを植えていました。今気づいたんだけど、きっとウチは鬼に狙われていたんだろうね。それをおばあちゃんが必死に守っていた。ちょうどおばあちゃんが死んだ時、実家は新しい家に引っ越しました。

 

おそらく実現可能な魔法、というか、すでに古来から使われ続けている魔法は、占いですね。占いは魔法じゃないのかな?占うだけだから。でも魔力とは関係ありそう。 タロット占いとか。占いだったら、三国志の孔明とかも、実際にバンバン天気や人生を占ってますからね。

 

昔、僕は仏教系の中学に行ってたんだけど、コックリさんが一時期流行ってました。数珠をしながら友達とコックリさんをしていると、ある時、僕の数珠のヒモがバチン!と切れて、数珠玉がそこらじゅうに飛び散りました。それ以来、コックリさんはやってません。あれ、○○○さん、って「さん付け」のネーミングだから結構マイルドに聞こえるけど、実はかなり怖いんですよ。あんまりのめり込むと、魔界への扉が開いてしまったりとか、する可能性は十分あると思います。

 

どうすれば魔法を使えるようになるかというのは、んー、きっと知ってる人もたくさんいるんだろうと思うけど、僕はまだ知りません。

 

多分、魔力を高める石とか、色とか、形とか、食べ物とか、いろいろあるだろうから、そのあたりで環境改善とか体質改善を図るのか。でも逆に魔力を弱めるグッズや環境もたくさんあるでしょうね。

 

僕の予想では、科学的なものとか、電気的なものとか、大量生産品とか。これは魔法の力を弱めるでしょう。普段、こういうのに囲まれて生活してるから、魔法が使えないんだよねー。

2011年05月21日

ねずみの嫁入り

(2011.5.28)
去年の子供の幼稚園の劇は「ねずみのよめいり」でした。

 

かわいいねずみの「チュウ子」がいて、お父さんが世界で一番強い人と結婚させようと思って、太陽にお願いに行きます。そうすると太陽は、「自分より雲の方が強い-太陽は雲に隠されてしまうんだ」と言います。雲のところに結婚のお願いに行くと、「自分より風の方が強い-雲は風に吹き飛ばされるんだ」と言います。それでは、と風のところにお願いに行くと、「自分より壁の方が強い-風は壁に跳ね返されてしまうんだ」と言います。そして壁のところにお願いに行くと、ちょうどその壁をカリカリ削ってネズミのチュウ太が出てくる。そしてお父さんは、「ああ!世の中で一番強いのはネズミだったんだ!」と納得して、チュウ子はチュウ太とめでたく結婚です。

 

童話作家を目指す僕としては、この「ねずみのよめいり」は本当に教科書のようなすばらしい物語です。まずネズミとか動物を擬人化するのはごく普通の手法だとして。ネズミを太陽と結婚させるとか。これは全くありえないですね。ありえない設定とストーリー進行こそが童話の醍醐味。僕がチュウ子のお父さんなら絶対に太陽とは結婚させたくない。チュウ子が黒焦げになっちゃうよ。

 

学生時代、外国で一時期ネズミのいっぱいいるアパートに住んでいました。ネズミはオーブンの下がお気に入りみたいで。いつもオーブンの下からピョコっと顔を出してきょろきょろして。そして僕が動かないとわかるとチョコチョコ出てくる。かなりかわいかったんだけど。

 

 

ある日、オーブンでピザを焼いて、焼きあがるのを楽しみにしつつビールを飲んでたら、オーブンからすごーく何とも言えない、動物の焼け焦げるにおいが・・・

 

まあオーブンと結婚するネズミもいるようだから、太陽と結婚するネズミもいるかもしれない。ちなみに電子レンジにゴキブリが入ってたこともあって、レンジでチンした後に、レンジのふたを開けると中からゴキブリが元気に出てきました。ゴキブリってどんな仕組みになってるんだ?この世で一番強いのはゴキブリかもしれない。チュウ子のお父さんに教えてあげなくては。

 

さてさて、ネズミの嫁入りの話。太陽から続く、よくわからないストーリー展開もすごいです。太陽→雲→風→壁→ネズミって、客観的にみると、強さ的に、明らかにどんどんグレードダウンしていってるんだけど。実はみんなチュウ子と結婚するのが嫌だったんでしょうね。そして変な理屈をこねて他人に押し付ける。でもチュウ子のお父さんはかわいそうに、みんなに言いくるめられちゃって、たらい回しにされながらどんどんわけのわからない方向に向かっていく。ある意味、人間社会でも見られるシチュエーションかもしれません。嫌な仕事を押し付けられそうになって、「いやー、私なんかにそんな大役、とてもとても務まりません。どこどこの○○さんは、若いんだけどとても才能があって・・・」みたいな感じで。自分より能力不足の人を無理やり持ち上げて仕事を押し付ける戦法。これは今後、「ネズミの嫁入り戦法」と呼びましょう。

 

太陽から続く一連のたらい回しの中で、僕が特に注目しているのが壁です。壁はすごい。壁なんかと結婚して、楽しいのかな?

 

僕としては、チュウ子は壁と結婚してほしかった。壁とネズミで、どのような幸せを築けるのか?すごく奥が深い。太陽とか雲とか風だったら、なんとなくネズミとの幸せな結婚生活を描くこともできそうな気がするんです。チュウ子が風に乗ってデートしたり。チュウ子が死んだあとには千の風になって子供たちを見守ったり。でも壁はどうだろう?壁の横に、チュウ子がいます。ずーっと。何年も。壁は無口だけど本当に優しくて。チュウ子を守ってくれて。でも本当に無口で。全く動かないし。そして千の壁。

 

カベ、強くて優しくて無口で誠実そう。ほんわかするラブストーリーが生まれそうな気がしてきました。全米が泣きそう。

2011年05月28日

ピノキオ

(2020.6.19)
僕の愛すべき心の友、ピノキオ。僕はピノキオのことをよく考えます。皆さんもきっとそうですよね。2年ほど前、中学生になった娘と夕食時、たまたまチラッとピノキオの話になりました。そして、娘に僕のピノキオに対する想いを、海外出張が終わって落ち着いたらお話にしてあげよう、と思っていた矢先・・・。出張先のイランのテヘランの、バザールの脇にある雑貨屋で、彼は僕を待っていました。

 

 

小道を歩いていて、チラッと道から覗いた雑貨屋さんの中に、彼は居ました。

僕はドキッとしました。とは言っても自分はかなり内気な性格なので、お店に入るのを躊躇して、そのままお店を素通り。でももちろん、歩いて雑貨屋さんから遠ざかりながらも、僕の頭の中はピノキオでいっぱいです。

 

世の中は魔法で満ち溢れているし、特にイランは夢と魔法の世界。小道を歩いているだけで、魔法にかかってしまいます。もともと、イランにピノキオがいること自体、普通じゃありません。30歩ほど歩いてから、回れ右。僕はすごい魔法の力で、雑貨屋さんの方に引き戻されていったのでした。

 

お店に足を一歩踏み入れて。ほんとはピノキオだけがお目当てで店に入ってるんですが、自分の中では一生懸命、「ちょっと、チラッと、特に目的もなく店内を覗いてみただけですよ~」、という感じを最大限装います。そこでお見せの中のいろんな雑貨を物色しているうちに、「あ、この人形、なんかかわいいよね。」みたいに、偶然たまたま、ピノキオを見つけた風を装いました。

 

「もしかしてこのピノキオ、売り物ではなく、お店の飾りなのかも・・・」と急に不安と迷いが生じます。そして意を決して、「これ、売り物ですか?」と雑貨屋のおじさんに聞いたら・・・、なんと雑貨屋のおじさん、英語が通じない。。。

 

んー、想定外。困ったなー、、、と思っていると、お店の中にいたお客さんが、「なになにっ?通訳してあげるよっ?」と、助け舟を出してくれました。

 

で、

「売り物?」「そうだよ。」

「いくら?」「350万リアル。」

 

えっ??350万とか、むちゃくちゃ高そう!日本円でいくらなんだろう・・・、と慣れない単位換算をしてみると、よくわからないけど4000円とか5000円くらいな雰囲気。イランで安い生活に慣れていたので、ちょっと予想より高くてびっくりしちゃって、僕はピノキオを買うのをあきらめて、「それではさようなら」、とお店を出たのでした。

 

そして、また小道を30歩あるいて、回れ右。


魔法ってけっこうすごくて、結界みたいなものがあるんですね。買うまでは店から30m以上は離れられない、みたいな。見えない鎖につながれてるみたいな。

 

頭の中で、少し前に死んだ父がささやくのです。「そんなもん、ほしいんやったら、こうといたらええねん。あとですてても、ええんやで。」

 

という声に背中をおされて、やっぱりピノキオを買うことにしたのです。たった5000円をケチって、こんな異国での運命の出会いを棒に振ったら、後悔しますよね。僕も大人なので、5000円くらい、その気になればバシッと使えるんです。

 

お店に戻ると、おじさんが、「やっぱり戻ってきたか」と、僕が戻ってくるのがわかっていたような笑顔で迎えます。魔法使いはこの人だったか・・・。僕は完全に彼に操られていたようです。

 

すると魔法使いのおじさんが、僕に、僕のホテルのカギを差し出すではありませんか。さっき、お店に入ったときに、大事なホテルのカギをポケットから落としてしまったようです。このままホテルに帰っていたら、カギがなくてアタフタして、アブナイところだった。。。というか、僕がカギを落とすのも含めて、この世界の素敵な魔法なのです。

 

こうして無事、ピノキオは僕の手へと渡りました。

 

 

 

 

 

ピノキオはホコリまみれでした。何年くらいお店で僕を待っていたんでしょうか。どこかからお兄さんが出てきて、道端で彼のホコリをパタパタ。ピノキオ君がどんどんきれいになっていきます。お兄さんは、道行く人と、「それ、売れたの?」「売れたんだよー!」みたいな感じで楽しそうにしゃべってます。何しゃべってるのかわからないけど。

 

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こういう経緯で僕のものになったピノキオ。出張の間、スーツケースに入らず、移動があるたびにそのままむき出しで持ち歩くことになりました。これが周りに大人気!ホテルでは、受付のおねえさんも、ボーイさんも、お客さんも、みんな、「そのお人形、すっごくキュートだねっ!」みたいに声をかけてくれます。ピノキオを持ち歩いていないときでも、「あの人形、元気?」と声をかけてくれたり、他のスタッフに、「彼は昨日、素敵な人形を手に入れて・・・」とか自慢してくれたり。そのたびに、僕はとっても誇らしい気になります。エッヘン。

 

ラップ調に表現すると・・・

 

埃にまみれた薄暗い過去。日の光満ちた今日この道。そう、それが誇り。心ホッコリ、顔もほころびニッコリ。という感じでしょうか。

 

 

で、無事帰国。

 

 

 

おしまい。

 

という話をしたかったわけではないのです。

 

今日はピノキオ君の最大の魅力、すなわち、彼の哀愁について、書きたかったのでした。前置きが長くなってしまって、本編は短いんですが、始まり始まり。

 

ピノキオ。彼の鼻は特殊です。ウソをつくと伸びるのです。僕はこれが、かわいそうでなりません。僕は「ウソをつくこと」について考えるのが趣味なのですが、そのたびに彼に同情します。ほんとのピノキオの話をよく知らないまま、ぼんやりしたイメージで彼をとらえているだけなので、もしかしたら僕の認識がおかしいのかもしれませんが。

 

ウソ発見器を背負わされて生きなければいけないということ。これはかなり、キツイですよね。こういうことされると、人格が崩壊してしまう気がするな。大声では言えませんが、ピノキオにこんな魔法をかけた妖精さん・・・、やっぱり言うのはやめとこう。妖精さんを怒らせちゃったら・・・、やっぱりこれも言うのをやめとこう。なんかちょっと鼻がむずがゆくなってきました。

 

もしかすると、ピノキオは、そんな罰を受けても当たり前の、ヒドイ行いをしたのかもしれません。でもなんとなく、これはかわいそー、と思います。ウソって、もちろん程度や頻度によりますが、そもそも基本的に悪いことじゃないし。ウソ無しで世界は成り立ちえないし。

 

ということで、僕のピノキオ。出会った時にはもうすでに、鼻がちょっと高くなっちゃっていました。僕と彼とは、常に無言です。僕は彼に会話を要求しません。だってウソ発見器付きの人と会話するのって、アンフェアだと思うから。彼は僕の元ではしゃべらなくていいので、リラックスしているように見えます。心の中では何を考えても自由なので、思う存分その自由を堪能してほしいですね。

 

おしまい。

2020年06月19日

犬について

(2020.6.19)
犬はなぜ、犬という名前なのでしょうか?猫は?鳥は?

 

名前の起源って面白いですね。今日はこれについて考察したいと思います。

 

身の回りの、生き物の名前の起源を考えてみて、気付いたことがあるんですよ。メジャー系は2文字が多いですね。

 

イヌ、ネコ、ヒト、ウシ、ウマ、ヤギ、カニ、ムシ、ダニ、ハエ。1文字は?蚊(カ)、とか、そこそこあるでしょうね。仮名は50音で、でも「ゐ」とか「ゑ」とか使わないし、「を」や「ん」から始まらない。「ば」とか「ぱ」とかも使えるので、1文字なら読みでは70種類くらいが上限でしょうね。2文字になると、かなり選択肢が増えます。読みが70×70=4900通りくらいの組み合わせになるし。2文字目には「ん」も使えるし、「っ」などのちっちゃい音とか、「ー」とかも使えるからもう少し多いでしょうね。

 

身の回りのモノの名前、少なくとも僕が決めたわけじゃない。決めれるものなら決めたかったけど。きっと昔の人が決めたはず。 そこで、イヌ、を誰が、どのようにして名付けたのかについて想像してみました。

 

昔々、小さな村がありました。100人くらい住んでいました。まだ文字とか無かった頃。そして、まだ身の回りのいろんなものに名前が無かった、あるいは定まっていなかった時代。

 

縄文時代とか弥生時代の平均寿命は15歳とか20歳とか程度らしいですね。もちろん乳幼児の死者の多さが平均寿命を下げてるんでしょうけど、あまり長生きもしなかったようです。とは言っても、縄文時代でも60歳代の骨も見つかってるそうで、中にはケガや病気にあわず、運よく健康に長生きして、70代、80代になる人も、中にはいたでしょう。

 

文字が無くて、これだけ世代の入れ替わりも早い。そこで大切になってくるのは、生き字引的な長老ですよね。

 

さて。この僕の想像の村には、なんと、3800歳の大ババ様がいました。

 

びっくりですね。何が起こってるのかわからない。 こっそり本当のことを話すと、彼女は76歳なんです。でも、その100人規模の村の全員が、大ババのことを3800歳だと信じています。大ババ様自身は、自分が何歳なのか覚えてない。なおかつあまり興味もない。王者の余裕、ですね。

 

2年前に実年齢62歳、公称250歳の村長(むらおさ)が死にました。村長は生前、村人達に言っていました。「大ババ様は、3800歳」。みんな数字に弱いし、あまり気にしません。カレンダーなんか無いし。文字が無いし。250歳=すごくたくさん。3800歳=もっともっとたくさん。なのです。

 

みんなが大ババ様に年齢を聞くと、大ババ様は言うのです。「忘れた」。

 

大ババ様の若かった頃はどんな世界だったのかを聞くと、大ババ様は言います。「お月様がまだ生まれておらんで、夜がなかった」。みんなは、驚きます。それはすごい。さすがに3800年生きているだけあって、お月様よりも長生きだとは・・・。そして、夜の無い世界を想像します。大変そうだなー。寝ないのかなー。暑そうだなー。などなど。

 

大ババ様は、世の中のいろんなことを知っています。地球の成り立ち、風の生まれる場所。なぜ雨は降るのか。歯はなぜ一度だけ生え変わるのか。大ババ様の知らないこともあります。大ババ様自身の年齢。それとか例えば、なぜ人は死ぬのか。人は死んだらどこに行くのか。たくさんの人がこれまでに、大ババ様に死に関する質問をしてきましたが、大ババ様はずっと、はぐらかしたり、「知らん」と言ったりします。村人たちは噂します。死んだら、きっとヒドイところに行くんだ。大ババ様はワシ等にそれを隠してるんだ。おそろしやー。

 

村には何人ものスペシャリストがいます。このジャンルの質問や相談は、この人。という感じです。病気になれば、誰々に聞けばよい。家を建てる時は、誰々が良い知恵を持っている。日々の生活は、村長の指示に従う。食品の貯蔵は誰。珍しいキノコを見つけたら、誰。などなど。

 

大ババ様は、最後の砦です。誰に聞いたらよいかわからない質問。誰も知らない疑問。村人たちは、そういうものの答えを求めて大ババ様の元にやってきます。

 

ある時、村にシカが迷い込みました。このあたりにはシカがおらず、村人の誰もが、それまでシカを見たことがありませんでした。でも美味しそう。こういう場合は、大ババ様が活躍します。村人たちに足を縛られ、引きずられ、前に出された怯えたシカを見て、彼女は言います。

 

「わしはこういう生き物を、見たことがない。今までこんな生き物は、おらなんだ。だから、これが何かは、よく知らん。」

 

村人たちは、ざわめきます。3800年もの間、こんな生き物を見たことがないとは、、、新種じゃ。あるいは、神の使いじゃ。

 

大ババ様は、話を続けます。これには、頭から棒が2つ生えておる。この類なら昔々、聞いたことがある。ツモ(ツノのまちがい?)というものじゃ。そして、2つのツモを持つ生き物は、ポニ(オニの間違い?)というもので、とても恐ろしいんじゃ。おそらく、これは、ポニじゃ。

 

みんなは慌てます。この弱弱しく、おいしそうに見える生き物は、そんなに恐ろしいポニというものだったとは。 大ババ様は、さらに続けます。

 

「捕まえたのは、誰じゃ?」

 

村人たちは、シーン、と静まり返ります。みんな胸がドキドキしだします。5人ほどの額から、冷や汗がど~っと出てきます。冷や汗タラタラの村人Aが耐え切れなくなって、急に叫びます。

 

「俺じゃねえ!俺は見つけただけだ。」

 

実はこれ、ちょっとだけウソが混ざっています。彼はシカを見つけて、そして、周りにいた村人B、C、Dに、美味しそうだから捕まえろよ、とそそのかしたのです。「見つけただけ」から幾分踏み出しています。もし彼がピノキオだったら、少し鼻が伸びていたところです。 村人BがAに向かって怒鳴ります。

 

「おまえ!陥れやがって!やったのはお前じゃないか!」

 

実際にシカを捕まえたのは、村人B、C、Dの共犯ですが、主犯格はBでした。

 

やったのは、おまえじゃなく、俺。実は。

 

ここからは、外野も巻き込んで、あいつだ、あいつじゃない、とかゴチャゴチャ、グチャグチャになってくるんですが、そこは端折りましょう。イヌにまで話が行きつかなくなっちゃうので。

 

大ババ様が言いました。 「お前たち、うるさいうるさい。このポニ様を、逃がしてくるんじゃ。ここで死になさったら悪い予感がする。」

 

この時の村人A、B、C、Dのホッとした顔といったらありません。何かわからないけど、なんか俺たち助かるみたい。すっごいマズいことをしてしまったけど、救済される道があるようだ、みたいな。それでも4人は、ポニ様に触るのをかなり躊躇していましたが、大ババ様が「早くした方が良いぞ。ここで死になさったら、悪い予感がする。」と言うのを聞いて、慌ててポニ様を逃がしに行きました。

 

大ババ様は、知らないことも多いのです。間違うことも多いのですが、それでも大ババ様の言葉や助言は重いのです。3800年の歴史の重みをもった言葉ですから。

 

この村では、その後シカが周りに増えだして、村人との接触も増えてきました。始めは怖がっていた村人たちも、何となく、「ポニって、どう見ても恐ろしい感じじゃないよね・・・」となってきます。そりゃそうですよ。シカですから。中には勇気を出して、ポニを食べる輩も出てきました。

 

これが結構、美味しいとかいう噂も広まります。

 

大ババ様は言います。「この生き物はおそらく、ポニではない。ギボじゃ。」

 

大ババ様、何となく、濁音を使いたかった気分のようです。こういう風に、当時の社会では、いろんなトライアル&エラーも起こります。村人たちはたまにギボ狩りをして、ギボのツモを釣り針やらネックレスやら、魔除けやら薬やらに使ったりもしました。

 

そのうち大ババ様もお亡くなりになりました。村全体で葬儀をしました。何しろ、大ババ様の人生3800余年の最後に立ち会った村人達ですから。

 

この村では、イヌのことはムゲルバルという名前で呼んでいましたが、なぜこれがムゲルバルなのか、大ババ様が死んだ今となってはわかりません。

 

誰かが誰かに聞きます。「なぜムゲルバルはムゲルバルなの?」

聞かれた誰かは答えます。「それは昔からそう決まってるからだよ。」

「昔ってどのくらい昔?」

「まだお月様が生まれていない頃からだよ。」

 

空にはベソリが飛び、ギボはカンクによく食べられ、ムゲルバルはカンクを追い払う。春になればヒキが脱皮して、レノが卵を産み、シロスがうるさく鳴き出す。

 

ある時、この村が、強い勢力に支配されました。幸い、村人たちは殺されませんでした。新しい勢力が、新しい村長と、何人かの役人を村に置きました。村人たちは普段とそれほど変わらず、ただたまに貢物を役所に差し出さなければならなくなりました。

 

その勢力から派遣された役人たちは、この村にいるムゲルバルを見て言いました。「ここにもシカカがいるのか」。

 

こうして、ムゲルバルはシカカになりました。その村はやがて、別の勢力の隣村と交流が深まりました。隣村ではシカカはイヌと呼ばれていました。

 

という感じで、いろんなものの名前が決まっていったらしいですよ。大ババ様によると。

2020年06月19日

言葉を貶める方法

(2020.6.20)
言葉って面白いし、難しいですね。

 

今回のタイトル、「貶める」というネガティブワードが入っていることもあり、ちょっとドキドキしていますが、やってみましょう。あまり社会風刺的なものはテーマにしたくはないのですが、今日はちょっと書いてみたくなったのです。

 

僕は、「遺憾」という言葉があまり好きではありません。遺憾をイカンと思う気持ちは如何ともしがたい、という、誰にとっても100%面白くないダジャレが頭にすぐに浮かぶのも(これこそ如何ともしがたいのですが)遺憾ですが。

 

なぜ自分が遺憾に対してアンチなのかを考えてみると、理由は2つ。1つ目は、たぶん遺憾という言葉に慣れていないこと。なんか昔はそんなに頻繁には聞かなかった気がするんだけど、いつのころからか社会が遺憾まみれになっている。遺憾との付き合いがまだ浅いから、しっくりきてないんでしょうね。2つ目は、慣れていないのとも関係するんでしょうが、遺憾の意味がよくわからないこと。これが僕のモヤモヤの原因です。

 

「遺憾です」というのが、


・「ごめんなさい」、と自分が謝っているのか、

・「ごめんなさいと謝れ」、と相手に言いたいのか、

・謝りはしないが、あなたの不幸や不満に寄り添うスタンスを表明したいのか、

・激怒したいところを必死で抑えているのか、

・逆に自分にとってどうでもよいことだけど怒っているように見せかけたいのか。

 

なんか、ハッピーやラッキーとは反対の、困ったことになってそうだけど、結局何を言いたいのかよくわからない。自分が悪いのか、相手が悪いのか?本気なのか建前なのか。遺憾と言っている人の本音が読み取りにくい。それでモヤモヤするんだろうと思います。

 

さて、「遺憾さん」には申し訳ないけど、僕は社会に遺憾が多すぎてモヤモヤしてしまっているので、この言葉を貶めて、減らしていく方法を考えてみました。僕が遺憾をそんなに好きじゃないのは、決して遺憾のせいじゃなので、遺憾だけど。

 

どうしたら遺憾が使われなくなるのか?逆説的ですが、みんなで遺憾を多用するとどうでしょう。

 

みんなが遺憾を無造作に使いまくって、社会が遺憾で満ち溢れて、遺憾って何が何だかわけがわからなくなってくると、重要な人が、重要な場面で、遺憾って使いづらくなるんじゃないでしょうか。そうすれば僕のモヤモヤは減っていきそう。

 

例えば、(小学校で)「廊下を走っちゃ遺憾でしょ!」「宿題を忘れて遺憾です。」「今日の給食のカレー、遺憾~。」「あまり騒ぐと、遺憾にしますよ!」

 

とかなってくると、もうわけがわからなすぎて、モヤモヤ感が吹っ飛びますね。マジ卍。

 

さらには、(恋人同士で)「あなた、遺憾。」「わたし、遺憾。」「今日の化粧ノリ遺憾。」「電話をするのも遺憾、しないのも遺憾。」「今日は遺憾にする?それとも激オコにする?」

 

とかも、楽しくないですか?

 

これを書いているウチに、なんだか書き始め当初と気持ちが180°変わっちゃって、遺憾がかなり好きになってきちゃいました。遺憾です。

2020年06月20日

はだかの王様

(2020.6.20)
はだかの王様って、知ってます?知ってますよね。裸なんですよねー。服を着ていないわけ。裸でパレード。普通の人が普通にやれば、犯罪ですね。まあ、裸でパレードしちゃってる時点で、「普通の人が普通にやる」、のとは違うディープな世界の話な気もしますが。

 

じゃあ、あの王様は犯罪者でしょうか?んー、僕には難しくてわかりません、どうでしょう?

 

王様本人は、少なくとも自分は服を着ていると思っている。しかも、とびっきりの素晴らしいやつを。露出狂とは根本的に違いますね。たぶん。でもほんとにそうかな?王様に聞いてみましょうか?

 

王様が正直村出身だったら、「失礼な!自分は服を着ている!」、って怒りますよ。王様は自分では本当にそう思ってるんだから。そして露出狂ですか?などと聞いたあなたは牢屋行き。

 

それじゃあ、王様がウソつき村出身だったら?本当は露出狂だったとしたら? この場合もやはり、「失礼な!自分は服を着ている!」、と激怒されて、聞いたあなたは牢屋行きでしょうね。

 

王様は絶対的権力者ですからね。だからいずれの場合でも、王様の心境は永遠にわからない。これでこそ、人間。ウソをついたらウソってばれちゃうピノキオ、かわいそー。

 

でも、裸の王様の服、「バカには見えない」服らしいですが、こういうのってどうなんでしょうか。バカには見えないペンダント、とかなら安心ですが、服ですからねー。 「バカには見えない服」、ということは、言い換えれば、バカからは、自分が裸で歩き回ってるように見えてるってことですから。しかもお話のタイトルが、「裸の・・・」なので、きっと下着まで含めて、バカには見えない系で固めちゃったんでしょう。

 

どっちがバカだか・・・、とか公然と言ったら牢屋行きになるので、さっき裏山に大きな穴を掘って、穴に向かって小さく叫んできました。おっと、それは別の王様の話だった。

 

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今日のネタは、はだかの王様とは、かなり関係があるかもしれないし、そんなに関係ないかもしれません。ネタ、というだけあって、スシの話です。

 

皆さんは、回転寿司はお好きですか?僕は大好きです。毎週は行かないけど、月に何度か、子どもたちと行きますね。美味しいし、安いですよね。僕が子どものころはスシって高級な食べ物だったんだけど、今はとっても安いですね。 僕たちは、家の近くの大手の回転寿司によく行きます。

 

2月のある週末。朝一で、いつものように近くの回転寿司に行きました。とってもいい天気!

 

 


開店に合わせて行くと空いてますよね。レーンにもまだスシが回っていません。席に座って、タッチパネルで注文をして、お箸とか醤油とかの準備をして、「さあ、今日も食べるぞー!」と心を高ぶらせていると・・・。

 

あれっ?変なのが回って来たぞっ?

 


なんと、シャリだけ。100円の黄色いお皿に乗って、2皿、レーンを勇ましく行進してくるではありませんか。

 

これは、すごい。普通の人が普通に考えるスシの枠を、超えている。

 

この仲良く並んだ2皿の「何か」。これはスシと呼んでいいんでしょうか? と、呼び方に少々困る、シンプルかつインパクト絶大のこの子たち。 最初は勇ましいようにも見えましたが、そのうち、心細くて2皿で身を寄せ合っているようにも見えてきました。

 

開店直後なので、これからレーンを回ってくるであろう他のスシたちの、露払いをしているようでもあります。健気で、愛おしく見えてきます。 いったいこれは、どういうことでしょう?

 

この子たち、実はとっても特別で、高級なシャリなのかもしれません。あるいは、はだかの王様のように、スシネタが、バカには見えない系なのかもしれません。または、「スシとは何か?」という、回転スシ屋さんから客に対する、哲学的な問いかけなのかもしれません。奥が深い。

 

慌ててスマホで記念撮影した後、シャリをめぐって、あーかもしれない、こーかもしれない、と、子どもたちとひとしきり大爆笑。とても楽しく、素敵な1日の始まりになりました。

 

お店を出た後も、頭の中はもう、スシネタでいっぱい。あの子たちの歌が頭でぐるぐる回って離れません。さすが回転寿司。この愛おしいシャリさんたち、幸せのネタをたくさん乗せてました。

 

おしまい

 

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P.S. ちょうどこの日は週末だったので、この気持ちを歌にしました。自作ではなく、替え歌です。 すごく出来の良い楽しい替え歌なんですが、替え歌ってネットで不特定多数に配信するのはハードルが高いんですよ。内輪でこじんまりと楽しむのがいいですね。もし興味がある人がいれば、メールでリクエストをくれれば、内輪の世界にいれてあげますよ?

2020年06月20日

つぼさん

僕は夜、子どもにお話をするのが大好きです。いや、大好きでした。

これまでに、長いのも短いのみ含めて、500回以上はお話をしているでしょうね。1000回はしていない気がします。

 

しかし、時は無常です。いつまでも子どもはお話を聞いてはくれないのです。一昨年まではそれなりに、調子よくお話をしていました。ところが去年はお話をしたのが数えるほど。今年は今の時点でお話回数がゼロ回です。こういうのを、「卒業」と呼ぶのでしょうか。ということで、今日のお話は、過去のノスタルジーに浸りながらの、お話のお話です。

 

500回とか1000回とかお話をしていれば、中にはチラホラ、大ヒット作が生まれます。我ながら傑作。子どもも大満足。続きをしてほしい、もう一度してほしい、とせがまれるような、そんなお話。今までに2つありました。「つぼさん」と「ハムスターおじさん」です。

 

夜寝る時のお話には、もともとは名前がついていません。そもそも、話はじめの段階では、僕自身、このお話がどんなお話になるのか、知らないのです。お話のタイトルは、特に優れたごく一部のお話にのみ、子ども達によって付けられます。「昨日のハムスターおじさんのお話の続き、して!」というふうに。お話が名前を授かる瞬間。素晴らしいですよ。神々しいというか。

 

さて、お話の中に出てくる人やものが、現実世界に飛び出してきたら、それはステキだと思いませんか?そんなこと、起こりうるでしょうか?

 

 

つぼさんは、出てきました。


 

つぼさん、2011年の夏に上の子どもにしてあげたお話に出てきた魔法のツボです。でもある時ふと、お話から外に出てきたみたい。これまでに、上の子どもに1度か2度、下の子どもにも1度か2度、手紙をくれたり、お守りをくれたり、お金をせがんでいたこともありました。子ども達もお返事を書いたり、お金をあげたりしていましたね。つぼさん、どうやってお話から出てこれたのか、とっても不思議です。この世界はどんなシステムになってるんでしょうか。



最後に子どもが手紙を受け取ったのがちょうど2年前の2018年の夏。その時は、海外を放浪中だったようです。僕のお話から出てきて、なんだか楽しそうに活動しだしたつぼさん。そして2年前は海外放浪中だったつぼさん。今はどこで何をしているんでしょう?もしかしたら僕のお話の中(ということは、頭の中?)に戻ってきていたりして!?仕組みがよくわかりませんが。

 

つぼさんだけじゃなく、もしこれまでにした500個だか1000個だかのお話の中の登場人物が、僕の知らないうちに、僕から出たり、また戻ったり、日常的にしていたら、とってもあわただしいですね。

 

 

2020年07月11日